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作曲家/ピアニスト 武藤健城(イーガル)の公演情報などなど日々の白昼夢。


by takekiygalmuto

真夜中にドキュメンタリー

さっきまでテレビを見ていた。あまり、テレビを見る方ではないんだけれど、つけたら目に飛び込んでくる寺山修司という字。
何だこれは、と思ってみていると

村木良彦さん追悼「あの時だったかもしれない」
村木良彦死去。その影響を受け、テレビ・映画で活躍する是枝裕和が展開する、「テレビの自叙伝」ともいうべき90分のドキュメンタリー。
60年代、萩元晴彦と共にその後のドキュメンタリー番組に大きな影響を与える作品を次々に世に送る。根底には「テレビとは何か?」という問いが常にあった。彼らの影響を受けテレビ・映画で活躍する是枝裕和が、二人の作品に触れながら展開する「テレビの自叙伝」とも呼ぶべき90分のドキュメンタリー。TBS映像ライブラリーに眠る作品も多数登場して、「テレビとは何か?」を見る者に迫る。


というドキュメンタリーだった。

とにかくその内容の60年代的、と今から思えば一括りにしてしまいそうな実験的な番組を作り続けたプロデューサー。
生放送でそのへんにいる人たちに好きなことを1分間ずつ話させる、という番組を制作したり、ドキュメンタリーである意義や、メディアとは何か、を問い続けたプロデューサー。

近代のジャーナリズムの前提、真実の世界を客観的に見せる、ということは前提からして無理である。まず真実を撮るということが不可能で、それを人が作る以上それは客観性を持ったものではなく、少なからず制作者にも見る側にも主観がある。つまり、何を作っても、それは見る人間の主観を作る何かにしかならない。
そんな感じのことを、このドキュメンタリーを見ながら思った。

現在のテレビ番組はあまり見る気がしないのは、制作者側があまりにも見る側に迎合しているからなんじゃないかと思う。こういう60年代のトンガった人たちがまた現われて、自分たちのメッセージを電波に載せられるような番組がまた作られたらいいな、と思った。


それから、60年代に撮られた好きなことを色んな人に1分間喋らせる番組を今見ると、それはすでに40年近く前の話であり、それは「60年代当時としての今」というフィルターを通して、僕たちは見る。つまりそれは、すでに60年代を歴史的な文脈として無意識に捉えて見るわけで、その分、何かしらの(歴史的な)意味をそこに見つけることが出来て、何となく、面白く見てしまった。
しかし、これを現在に置き換えて考えた場合に、果たして、「渋谷や新宿で若者たちに1分間与えて好きなことを話させる生番組」を作り、放映する勇気はあるのか、と考えるとかなり疑問がある。放映する勇気、というか価値があるのか・・・。
いつの時代も若者というものは奇異なものに見えるのじゃないかと思う。そんな若者が語る「今」や「自分」には何の意味もなくニュース性もない薄っぺらいものかもしれない。それでも、その薄っぺらさが、年月が経って過去になったときに、そのニュース性の無さは「その時代」のドキュメントになるんではないかと思う。
それを見越して作ったのか、ただ若者たちの薄っぺらい様子を放送したのか、何かそこにある生というものが、すごく生々しくて、良かった。
そういう意味で、同じことの焼き直しに果たして意味があるのか、というところはあったり、作り手側の意識の問題もあるけれど、現在でも、若者たちが好き勝手に喋る生放送があったら、今は何とも思わなくても、きっと何十年かしたら、それはそれで価値のあるものになるんじゃないかな、と思った。


こんな骨太なドキュメンタリー久々に見ました☆
いやー、たまには深夜にテレビをつけるのもいいものですなー。


おやすみなさい♪
by takekiygalmuto | 2008-05-19 03:47 | 日記