作曲家/ピアニスト 武藤健城(イーガル)の公演情報などなど日々の白昼夢。


by takekiygalmuto

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さて、先日試写会に行ってまいりました。
「バルバラ セーヌの黒いバラ」


今年は前半にシャンソン歌手ダリダの伝記映画が公開され、そして、11月にはバルバラを題材にした映画が公開されるだなんて!
とワクワクしておりましたら、
何と試写に呼んでいただきまして、見てまいりました。


これでございます。
バルバラを題材にした映画を撮ろうとする映画監督と主演女優の話です。
劇中には、バルバラの本人映像満載、そして、バルバラの映画を撮影するシーン、
さらに映画監督と主演女優の撮影外での様子が入り乱れて、構成されております。
どこまでが撮影されている「バルバラにまつわる映画」なのか、
どれが「本人映像」なのか、どれが「監督と女優の日常」なのか、
映画が進むにつれてその境界線は曖昧になり、違うはずのレイヤーが淡く滲みながら重なりあってゆく。
劇中映画の主演女優が演じるバルバラ。彼女が曲を作るシーンを興味深くみました。
ピアノを弾きながら鼻歌で…こんなふうに曲を作っていたのかなぁ…
ふむふむなるほどなるほど、などと思ったりもしましたが、
そんなシーンも突然、セットが解体されて消失してしまったりします。
基本的には構造が入り組んでいて、一体何が映画内で進行しているのか、一見しただけではわからない。
今見せられているのは、映画内映画なのか、それとも女優の日常を描いたセミドキュメンタリー的な何かなのか、
映画内に映る粗いフィルム映像はバルバラ本人なのか、時間をおう毎に、境目は曖昧になり、
映画後半では、もう僕は見せられているものが何かを考えることを放棄しました。
それでも圧倒的に美しい混沌が心の中に流れ込んでくる。
そんな映画でございます。

僕は、あやちクローデル×イーガルのユニットで、バルバラの楽曲を演奏することがあります。
特に「黒いワシ」。
歌詞が多様な意味を持ち、解釈の幅が広い。何でしょう、文学で言えばジョイスの「ユリシーズ」みたいなものでしょうか。
多義語、という言語の特性をいかした謎めいた言葉の羅列。一応意味はわかる、けれど、それが一体何を指しているのかわからない…、その分からなさと得体の知れなさをそのままに、バルバラの曲を演奏しています。
言語化できない何か、がバルバラの歌にはあると思うのです。
バルバラは歌手であり、言葉を扱っているのだから言語化できない何かなはずはなかろー、と思うでしょ。
でも、だがしかし、さもありなん。バルバラの歌は言語化できない何かを、言語という表層の裏側に隠しているような気がしてならないのです。
そして、その見えざる言葉を、表層にある言葉とつなぎ合わせながら演奏してゆく。バルバラの楽曲を扱う、ということは、
そのような作業だと思っています。


そして!
この映画がまさに、バルバラの楽曲に僕たちが向かうときに感じる解釈の不可能性と同じでした。
この「バルバラ セーヌの黒いバラ」という映画自体がバルバラの音楽のような、
バルバラの音楽の概念のような映画でした。
気持ちいいほどに、「解釈する」という行為自体が飽和して、消失していくような体験。

何か似たような映画はあったかな、と思ったら
イングマール・ベルイマン監督の「ファニーとアレクサンデル」やデヴィッド・リンチ監督の「インランド・エンパイア」
に近いのかな、という気もしましたが、
上記の映画はもう少しレイヤーの区分がはっきりしていて、観客はその混沌の外側に居続けられます。
しかし、この「バルバラ セーヌの黒いバラ」は、観客共々、映画の中で迷子になっていく、出口のない迷宮のような映画です。

何度も見たい。もう今すぐ見たい。
そして劇場でも見たい。

皆様、ぜひ劇場で御覧ください。
11月16日Bunkamura ル・シネマで公開です。

いやぁ、こんなにも破壊力のある映画だったとは…。
こんな凄まじい映画を撮ったマチュー・アマルリック監督に脱帽です。



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by takekiygalmuto | 2018-09-16 19:40 | 日記

9月前半の読書

8月はシアタートラムにてながめくらしつ「うらのうらは、」やら、僕自身が作曲して指揮をしたバレエ初演など、
舞台に関わるものが多かったのですが、
その合間をぬって、
増田俊也著「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」を読んでおりました。
基本的に僕は読書のスピードが早いので月に10冊程度の本を読むのですが、
何と今年の8月はこの一冊にほとんど費やされてしまいました。
僕はほぼ「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」の半殺しにされておりまして、
この夏の読書は格闘技で御座いました。
こんな恐ろしいノンフィクション、何。
むしろ、怒り。

だって、おかしいでしょ。
当時テレビの視聴率100%だったプロレスの
木村雅彦vs力道山戦
の裏話的なアレかと思って読み始めたわけですよ。
そしたら、日本柔道の歴史やら、東条英機やらマッカーサーやらいろいろな人や事件が登場しまくりまくりまくりで、
もうこれは日本の戦前、戦中、戦後の柔道を通した日本文化史、特に戦後にどのようにして「興行」というものが
発展していったか、という文化論の一種でございました。
いや、むしろ、海外にどのように柔道が伝わり、誤り、あるいは日本で消えてしまった柔術が海外にはまだ残り…、と
日本のことだけではなく、海外も巻き込んだ壮大すぎるルポルタージュで、
猛暑の中、僕はこの本と戦い続けたのでした。
読み終えた感想は、

スゲー。

オワッター。

…。

もう脱力ですよ。やっと読み終えた(勝った)。
僕はこの夏プロレスをしていたようです。本と戦っていたようです。

今では名前すら一般には忘れられているかもしれない木村政彦という柔道家の一代記、
あまりにも破天荒で、柔道に真剣で、そして人生に真剣で、ズルく生きた一人の男の生き様に
共感と反発と、何ともいえない「時代」に呑み込まれた哀しみを感じました。
素晴らしいノンフィクションでございました。


さて、「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」を読破して、満身創痍のイーガルですが、
やっと他の本に手を伸ばして、読み始めようと思ったら

もう9月やないかいっ!

どういうことだ。夏を満喫するような夏読書をしようと思って買っていたあの本もこの本も
もう永遠にこない8月に取り残されたように部屋に置かれておりました。

ということでこの1週間の読書は
森見登美彦「ペンギン・ハイウェイ」
名倉編「異セカイ系」
村田沙耶香「コンビニ人間」
の三冊でございました。

「ペンギン・ハイウェイ」
小4の夏休みに街中に突然ペンギンが現れたり、現れなかったりする話。
確か日本SF大賞を取っていたような気がして、夏休みシーズンに読もうだなんて思っていた僕の思惑は
見事にすかされて、9月に読みました。
内容は理論SFというよりは、ジュブナイル×ファンタジーといったところでしょうか。
感想は、小4から巨乳好きは危険。です。

もう少しSF要素が強いのかと思っていたので、少々期待はずれの部分はありましたが、
それでも尚、面白いストーリーと軽快な文章。登場人物たちの会話の、ちょっとピントをはずした話し方が
たいへん面白く、最後まで一気に読んでしまいました。

ただ、これは子供向けなのでしょうか…、結構後半はロジカルな部分も多く、小説内世界の構造を把握するには
ある程度のSF基礎力が試されるような気がしました。


「異セカイ系」
あー、もう、なんだよこれ!と叫びたくなるような多層構造のメタSF。
いや、SFでもないのか、むしろ、実験小説の部類に入るのでしょうか。
ウェブ上で小説を公開するサイトで上位10作品に入ると、その小説世界に作者が入ることができる、
というのが大筋なのですが、
作者と(作者の創造した)キャラクターとの関係性、
そして、作者とキャラクターは完全に違うレイヤーに存在していて、
互いに干渉することは不可能なのか、
また、可能な場合はどのような場合なのか、
そのようなことが書かれた小説であるような感じがしないでもないような小説でした。
一義的には、小説というものがあれば、そこには作者が存在します。
その作者より上位に小説内のキャラクターが立つことができるのか、という挑戦に思えました。
このような試みはフランスのヌーヴォー・ロマンの文脈ではいくつかあったような気がしました。
クノーの「イカロスの飛行」とか確かそうだったような。
あとイタリアのピランデルロの戯曲で「作者を探す六人の登場人物」というのがあったような気がします。
日本でも、筒井康隆が「残像に口紅を」や「虚人たち」の登場人物たちが何らかの物語の登場人物であることを
意識した行動を取っていました。

「異セカイ系」では、小説内の主人公の一人称独白で進んでいくのですが、
それがもう何だかアホみたいに爽やかでリズム感のある関西弁で、それが生き生きとしていて、
さらに、小説内がどんどん多重構造になっていき、最後にちゃんと落とし前をつけて、
しかも、希望に満ちている。
単なる自己完結系独りよがりな「自分の書きたい世界」を書いた小説ではなくて、
オタクっぽくありながらも、この現実世界を見つめる眼差しのある小説でした。
大変大好きです。
でもあんまり人に進められない小説だな。でも大好きです。
セカイ系が好きな人よりも、入れ子構造の小説が好きな人に勧めたいです。
でもそういう人はこの同人誌感に抵抗があるような気も。
誰に向けられて書かれた小説なのか、ターゲットが謎すぎますが、
めちゃくちゃ素敵な小説でした。

この一週間は新鮮な読書が続いております。


「コンビニ人間」
芥川賞受賞作ということで読む気も起きなかったのですが、
とあるキッカケで読んでみることにしました。
とあるキッカケというのが、この本の主題がコミュニケーション障害にある、ということを知ったことなのですが、
僕はですね、この「コンビニ人間」が芥川賞を受賞したとき、
勝手にですね、コンビニで働く健気だけど一生懸命生きている人々の些細な幸せを描いた小説、
と思っていたわけです。
そしたらどうよ、全く違うんだよ。
人とのコミュニケーション不全の主人公が、18歳のときに「コンビニ人間」として生まれ、
人々の言動をトレースしながら、漠然とした「普通」を無感情に演じながら生きる、という話でした。
冒頭の方でいきなり、

「コンビニ人間として生まれる前のことは、どこかおぼろげで…」(「コンビニ人間」より)

などと、自分を、人間としてではなく、コンビニ人間という新種の何か、として見ていることが明確に提示され、
そして、主人公を取り囲む「普通」という漠然とした何ものかの枠内に生きる人々との、社会的関係性が、
淡々と描かれている。

むしろ、新種コンビニ人間誕生秘話的なSFなのではないか、と考えてしまうほど、
全然普通の小説ではありませんでした。
感情、という機能が無く、そしてそれを補うために他者をトレースしてゆく主人公。
社会的「普通」の中に真性コンビニ人間を埋没させようとする主人公。
そして、ラストシーンでは、美しく、その自分の存在を社会的な何か、から乖離させて、
自分になります。
これは絶対にハッピーエンド。何かのレビューでバッドエンドだというようなことを書いている人がいたような
いないような、いや、いなかったかな、どうかな。

さらに、この主人公と同じような気持ちを持ちながら、それでも「普通」と戦うがために戦闘能力を失った男や、
リア充っぽい人たちがいて、そして、何よりも「普通」を体現したような人たちもたくさんでてきます。
この主人公は最初から全然戦っていないし、社会の中に自分の位置など気にしていないし、
なにかに抗ってもいない。
感情が見えない。それなのに、それが全く空虚でも哀しみでもなく、ただ、今まで誰も描かなかった、
そして、描けなかった新しい人間像を小説世界に提示してくれたような気がしました。
こんな傑作を今まで無視していてごめんなさい。
こういう小説を待っていたんです。
こういう小説を読みたかったんです。

他者とのコニュニケーションが苦手な人を主人公にした小説じゃないんです。
これを読んで、「私もコミュニケーション苦手だけど、勇気がでた」とか言ってる場合じゃないんです。
そもそもコミュニケーションの概念自体が無い人の小説なんです。

ああ、この村田沙耶香さんの本、出てるだけ全部読みたい。
コミュニケーション不全の人間を主人公に、どんどん突き進んでいるのか、読みたくて仕方ないので、
一冊買ってみました。
読むのが楽しみなので、来月あたりに読もうかと思っております。



さて、今回も長いですね。


噂の映画
「カメラを止めるな!」
を見ました。

なるほどね。という感じでした。
良かったんです。良かったんですけど、傑作!というよりも、
え!? これ、今まで誰もやってなかったのか、盲点!

みたいな感じでした。
でもこういう映画を撮れるって、いいなぁ、と思いました。


さて、「ペンギン・ハイウェイ」。劇場で見ようかな。


はい、今回も長々とすみませんでした。
もう少し人の役に立てる人間になりたいです。










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by takekiygalmuto | 2018-09-16 19:35 | 日記

夏休み読書感想文

夏休みですね。
夏休みなんていつの頃から廃止になったのかってくらい、
夏休みの実感がないんですけど、一応
夏休みなんですね、今は。
夏休みといったらなんでしょう。
やはり、読書感想文ですよね。
僕は小学生の頃から、一ミリも感想のない読書感想文を出し続けて、
先生に「君の意図がわからない。」と言われ続けたのですが、
それは僕が全然主観的な感想を書かずに、これこれがこのような構造になっている、というようなことを
書き続けたからんですね。
何かの読書感想文では、何の本だったのか忘れましたが、本の粗筋と矛盾点。最後に、川で子供だけで遊ぶことの危険性への喚起など、確かにどこにも感想なるものがなかったなぁ、と思ったり、(小3のイーガル)
古今亭志ん生の口演台本の感想文なのに、古今亭志ん生の芸名の遍歴を書き続けたり、と(小4のイーガル)、
今思えば、大変攻め込んだ読書感想文になっておりました。

さて、今年の夏は一体どんな本を読んでいたのかと申しますと、
これはもう、ワールドカップですよね、サッカーですよね、スポーツですよ。
ということで、スポーツを題材にした名エッセイ集なぞ読んでました。

「肉体の鎮魂歌」という増田俊也編さんの素晴らしいエッセイ集です。
中でも、高山文彦の『遥かなる祝祭。ー吉村禎章の軌跡。ー』は、涙なくしては読み進められない、
恐ろしく人間的な苦悩に満ちたエッセイでした。
そうだった、吉村禎章は大怪我をしたんだ、そうだった…と。そして、大怪我をさせてしまったチームメイトの栄村にも苦悩があり、もう暑苦しいくらいに美しい。
この一編だけでも良いのに、どこを読んでも素晴らしいスポーツエッセイ入門書のような本でございました。
スポーツ少年少女よ、ぜひとも読書感想文に。
先生も「シブいねぇ」と喜んでくれるはず。

エッセイに気を良くした僕は、磯部涼の「ルポ川崎」を読みました。
正直、ルポルタージュとしては半端というか、体をなしていない感はありますが、
章ごと、別々の人物の視点から語られる川崎という町。
そこで生きる人々の行き場のない鬱屈感と、環境に甘んじていく姿、そこから抜け出そうとする姿、
壮絶で、規格外で、とにかく面白い。
この凄まじさに圧倒されて、久しぶりに大興奮の中、夜通し2回読んでしまいました。
これはもう、加藤詩子の『一条さゆりの真実』並に激アツルポでした。
ルポルタージュは戦いなのだと、改めて思った次第でございます。
小学生の皆さん夏の読書感想文にはぜひ、ルポ川崎を。
先生をドン引きさせてください。

さらに田口久美子の『書店風雲録』を読みました。
今はなき、池袋のリブロの書店員としてリアルタイムの80年代~2000年代を見つめてきた著者による、
書店とはいかなる場所か、そして、書店は何を成し遂げ、何を出来なかったのか、ということが書かれております。
私たちが買う本の裏側には、本を売る仕事がある、ということを考えさせられる本です。
そして、リブロという書店は、文化、いや、カルチャーを作っていた場所なんだなぁ、と良くも悪くも思いました。
本好きの皆様の読書感想文にぜひ。
きっと先生よりも君のほうが本を読んでると思われるよ!勝ち組!

そんなこんなをしていたらですね、
漫☆画太郎先生の「星の王子さま」の2巻を買おうとして、間違えて1巻を買ってしまったんですね。
ということで、改めて2巻を買い直したけれど、うちには漫☆画太郎先生の「星の王子さま」1巻が二冊あります。

1巻ラストの方にはサン=テグジュペリの「星の王子さま」にちっとも引けを取らない名台詞があります。

「いちばんたいせつなことは地上波では見れないんだよパヤオ」

何という感慨深い言葉でしょう。この言葉を引用するだけで、この夏の読書感想文は満点ですね。
話の筋は、まぁうん、凄まじくくだらない。さすがです。

最近では間違えて2冊3冊と同じ本を買ってしまうことがあるのですが、
草野原々の「最初にして最後のアイドル」という近年稀に見る傑作SF短編集を3回買ってしまった以来の出来事です。
読書用と読書用と読書用です。何で買ったことを忘れて買ってしまうのでしょう。
推し作家だから、応援だと思って、もう一冊くらい買おうかしら。
この短編集は、アイドル活動、声優、ソシャゲをSFに昇華させて、さらに宇宙をふっ飛ばすというような、
イマジネーションの突飛な飛躍に満ち満ちた、トキメキ満載SFです。読者を選ぶ本ではありますので、そこんとこよろしく。
ちなみに、「最初にして最後のアイドル」を読み終えてなぜか、桜坂洋の「さいたまチェーンソー少女」を読み直してしまいました。学校って大変。

漫画二度買い地獄に慄いた僕は、一応、家の漫画の在庫を調べてみました。
そしたら、あー、懐かしい、とか思いながら、読みまくっちゃったわけです。
萩尾望都「ポーの一族」「トーマの心臓」
中村明日美子「Jの総て」「コペルニクスの心臓」
岡崎京子「リバース・エッジ」「PINK!」
高野文子「絶対安全剃刀」「黄色い本」
などなど。

とりあえず、切りがなさすぎて1作家2作品まで、と勝手なルールを決めて読んでおりました。
ていうか、少女漫画ばっかりじゃねーか。
でもですね、改めて読み返してみると、漫画にしか出来ない表現があったりするわけです。

岡崎京子の「PINK!」は改めて本当に傑作だなぁ、と思いました。
OL的な人が家にワニを飼っている話なんですけど、この普通と不条理のアンバランスなままの同居は、漫画ならではの、
空気感だなぁ、と思いました。
小説にしてしまうと、その不条理に対しての説明が必要な部分が、絵の中に押し込まれて、不思議と違和感のない理路整然とした世界に見えてくるから不思議です。

高野文子の「絶対安全剃刀」はどれを読んでも読み終えた途端に怖くなって、読み終えるのに時間がかかりました。
人間の持つ哀しみが絵の中に溢れすぎていて、もうなんだか、ヘミングウェイを読んでいるような気分に。
絵がうまい、っていうのか、そういうことじゃないような、漫画の域にはいないというか、何というか、
とにかくやっぱり凄まじい漫画でした。
10年後くらいにまた読み返すでしょう。これまた読書感想文にはうってつけの漫画ですね。



さてそんなこんなで今は増田俊也渾身の長編ルポ『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか』を読んでおります。
グレゴリー柔術に勝った男、木村政彦の話です。
冒頭からいきなり熱い。
猛暑に読むと、昇天してしまいそうな熱さです。
僕は『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか』にこの夏殺されずに生き残れるのでしょうか。
サヴァイヴ出来たらまたブログを更新します。

長くてごめんね。
そしてくだらなくてごめんね。

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by takekiygalmuto | 2018-08-10 00:23 | 日記
ねえ、皆さん、
僕のブログ更新、5月から止まってたみたいですね。
あれー、オカシイナー書いたハズナンダケドナー。

はい、嘘です。

なんだかね、ものすごい忙しさで
6月からはソラマチ大道芸の出演、ヘブン活動、MUSIC COCKTAIL CLUB2DAYS、ラジオ収録などなどしていたわけですが、

何と言っても!!

北原ミレイさんの伴奏をさせていただきました。

石狩挽歌ですよ!ざんげの値打ちもないですよ!
北原ミレイさんですよ!
僕がずっと共演できたらいいなぁ、と思っていた方と、こんなに密に接して、
代表曲である「石狩挽歌」と「ざんげの値打ちもない」をがっつり、伴奏だけ聞いたらなんの曲かもわからないほどに
アレンジまでさせて頂き、やりたい放題のイーガルでしたが、優しいかたで、何も言わずに歌ってくださいました。

僕の事務所の社長が口説き落としてくれました。

社長、おぬしよくやった!

と、心底思いました。
感謝!


ミレイさんは、リハーサルでも本番のステージの上でも明るくて気さくな方で、もぅ楽しくて仕方なかったです。

昭和の歌謡史に残る名曲を歌ったミレイさんから聞くお話は、体験した方だから言える、ザッツ昭和芸能史。
楽しい話をたくさん話してくださいました。

夢って叶うんですね。
ミレイさんと共演なんて、憧れすぎていて、憧れていたことすら言い忘れてしましましたが、
ひとつ夢が叶った気分で7月は浮かれておりました。


そして、なんと、またしても北原ミレイさんと共演いたします。
今度は、9月30日かな? 大井町きゅりあん大ホールです。

どやぁ!
見逃した方も、今度はぜひ!

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by takekiygalmuto | 2018-08-09 23:05 | 日記
ここのところ、あまりにも忙しくて、ブログの更新をさっぱり忘れていたわけですが、
いつ以来のブログでしょうか。

忘れてしまいましたが、8月に入ってからは
市ヶ谷にある素敵な場所、劇空間えとわ~るにピアニストとして初出演させていただきました。

c0077204_22501524.jpg
こーんな感じで終始必死にがんばりました。
シャンソニエでの演奏経験がほとんどないので、緊張のあまり吐きそうでしたが、
出演者のみなさま、えとわ~るのみなさま、お客さまに支えられながら、いろいろと事故を起こしながらも
終えることができました。

なんだかねぇ、素敵な空間なんです、えとわ~る。
美しい場所です、恋のロシアンカフェを歌いたくなるような、そんな場所です。

ご覧いただいた皆様、本当にありがとうございました。
マダム~、また呼んでくださいね!



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by takekiygalmuto | 2018-08-09 22:53 | 日記
ここのところ、あまりにも忙しくて、ブログの更新をさっぱり忘れていたわけですが、
いつ以来のブログでしょうか。

忘れてしまいましたが、8月に入ってからは
市ヶ谷にある素敵な場所、劇空間えとわ~るにピアニストとして初出演させていただきました。

c0077204_22501524.jpg
こーんな感じで終始必死にがんばりました。
シャンソニエでの演奏経験がほとんどないので、緊張のあまり吐きそうでしたが、
出演者のみなさま、えとわ~るのみなさま、お客さまに支えられながら、いろいろと事故を起こしながらも
終えることができました。

なんだかねぇ、素敵な空間なんです、えとわ~る。
美しい場所です、恋のロシアンカフェを歌いたくなるような、そんな場所です。

ご覧いただいた皆様、本当にありがとうございました。
マダム~、また呼んでくださいね!



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by takekiygalmuto | 2018-08-09 22:53 | 日記

あらまあ

驚くほどプログを更新していませんでした。
ごめんなさい。

5月~7月頭の出演スケジュールを更新しました。


そういえば、先月長野に行ってきたんです。
炎天下の野毛大道芸、なんと1日6回2日で12回のパフォーマンスを終えた次の週に。
谷口界君も言っておりましたが、「日本にもこんなことができる現代サーカスカンパニーがあるんだぞ、ということを
知ってもらえた」と思いました。
とても素敵な機会を与えていただいて本当にうれしかったです。ありがとう野毛大道芸。ありがとう目黒。

そして、長野ですよ。バーバラ村田と共にムーランルージュ劇場をやってまいりました。
たくさんのお客様に囲まれてこちらも楽しい時間でした。
実はですね、長野には本番前日に行きまして、
そしたら▲s(ピラミッドス)が何故か長野でライブをしていて、見に行きました。

それからね、5月に入ってからマリアンヌ東雲支配人率いるキノコホテルを久々に見に行きました。
これは東京です、新宿です。新宿が本当に似合う女マリアンヌ東雲。かっこよかった。相変わらずです。

そのあとですね、香川に行ってきました。
その帰りに大阪に寄りまして、豪雨の野外音楽堂でチャランポランタンのブタ音楽祭を見てきました。
いやー、楽しかった!
素敵だね、ほんとにもう。


ということで、しばらくあまりライブに行く機会がなかったのですが、偶然にも今は無き青い部屋で見知ったミュージシャンのライブを立て続けに3本見て、そしてみんな相変わらずだし、変わらないし、素敵だし、
これはもう僕もがんばらにゃならんなと思ったのでブログを書いている次第で御座います。



なんだかね、とにかく忙しくて、目の前のことに精一杯です。
相変わらず、本を読んだり、映画を見たりしてはいるんですが、
今年は映画がかなりアツい。

もうTwitterとかでも何度も言ってるのでアレですが
「グレイテストショーマン」が激しく素晴らしかったので何度も映画館に行きました。

それからですね、
最近では
同性愛を扱った映画「君の名前で僕を呼んで」を見たんですが、これがまぁ、映像がうまい。演出が自然。
主演のティモシー・シャラメが、
何でしょう、人生のうちに誰しもが持つ一番輝いている瞬間、みたいなものに見えるんです。
どんな人にも若く美しい一瞬があると思うんですが、
人によってはそれは1日かもしれないし、長い年月輝いているかもしれない。
だけれども、若さの特権のような美しさは、本当に一瞬のものだと思います。
それが、この映画の中にしっかりと記録されている、そんな気持ちになりました。
しかも同性愛を扱っているとはいえ、そういうこととは関係もなく、
ラスト近くで語られる父親のセリフは、
これから人生を生きるすべての若い人たちに、喜びと後悔と挫折とたくさんの感情をこれから得る人たちに、
そして、そんな人生の半ばを歩く人たちに、僕たちやあなたたちは、そのへんの人や地球の裏側の人たち、
みんなへの生きることへのメッセージのようで、
ああこんなにもいい映画を作ってくれてありがとう、という気持ちで劇場を後にしました。
ただね、原題の「Call me by your name」でタイトル良かったと思います。


そしてですね、
次の日は、上映最終日の最終回でハンガリー映画「心と体と」を見ました。
こちらは、「君の名前で僕を呼んで」とはうって変わって、
シリアスで不器用でつらい物語。
食肉加工工場で働く、人とのコミュニケーションがうまく取れない女性と片手の動かない初老の男性。
彼らはなぜか同じ夢を見ています。
理由もわからず、ただ同じ夢を見て、そして不器用すぎるコミュニケーションとその挫折や葛藤、
どういう未来を見ながらどこに進んでいくのか、静かで美しく、残酷で、やはり美しく、
もうね、胸がいっぱいです。
感動ではない、もっと深い何か。

ということで
この二本の映画、素晴らしかったです。
これからも近々に見なきゃいけない映画が目白押しなのですが、
仕事頑張ります。
仕事ちゃんとしたら、見に行きます。

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by takekiygalmuto | 2018-05-21 16:40 | 日記
こんにちは、イーガルです。
3月ですね、知ってます。
梅ですね。


若葉町ウォーフにて「おのがまにまに」二日間、3公演とっくに終わってました。
僕の初演出作品ということで期待された方、期待を裏切った方、皆様ありがとうございました。

ここで、僕が一体何をしたかったのか、ということを書いてみようかな、と思います。

まず、詩人の詩を扱うということで、第一に、僕が勝手に並べた詩に勝手に意味を与えて物語にしないこと。
ひとつひとつの詩は詩として完結させること、を念頭に置きました。
そして、演者のあやちクローデル(唄)と目黒陽介(ジャグリング)の関係性ものを作ろうと思いました。
同じ時間、同じ場所にいるにも関わらず、お互いがお互いの存在に気付いていない、あるいは気付いていても無視をする。
舞台というものはひとつの空間で、それにも関わらず、ふたつの別個の事象が同時に進むようなものを作りたいと思いました。
そのため、二人は性別をなるべくぼんやりとさせるような雰囲気と、決して合わせない視線。
互いの存在との変な距離感を意識してもらいました。

見た人たちが、二人の演者が男女の関係性に見えてなければ、僕のやりたかったことは少し達成されているように思います。

そして、その互いに干渉しない二つの存在が、干渉しないが故にもしも物語を生むとすれば、
それを僕も見たいと思いました。
決して作らない物語が、見た人の中に「物語」として現れたのならば、うれしいです。


初めて演出をする上で、あやちと目黒君から参考になることをたくさん学び、
やっとこさ出来上がりました。

ご来場いただいた皆様、ありがとうございました。
そして、企画してくださった脇道ソレルさん、制作に入ってくださった奥村さん、ありがとうございました。


☆☆☆


そして、先週末は、気仙沼にバーバラ村田と行ってまいりました。
お茶っこ芸人プロジェクトというもので、7年ぶりの気仙沼でした。
7年前は、震災の年でした。本当に何もかもがなかった気仙沼に
たくさんの灯りがともっていました。
二日間で4回のパフォーマンス。楽しく、そして、いろいろなことを考えた旅でした。

さぁ、
春もたくさんいろいろしますよ。
スケジュール更新したのでみてみてください。



僕は花粉症じゃないので、とても春がすきです。

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by takekiygalmuto | 2018-03-08 20:44 | 日記
<別に小説じゃありません。>
川上弘美の「センセイの鞄」を読みました。ので、川上弘美の「センセイの鞄」風に書いてみました。
珈琲のことを書こうとしたのに、意味もなく小説風になってしまいました。
このブログは

大変長い

ので別に読まなくてもいいです。

「センセイの鞄」とは、初老のセンセイと元教え子の(だけれども高校時代にはセンセイの印象は薄かった)ツキコさん(わたし)の、微妙な関係を描いた小説です。



≪珈琲≫


珈琲豆は冷蔵庫に保管している。
飲むときに飲む分だけ、今日はきっかり1.5杯分、丁寧に計って、少し細かめに、挽く。ちょっと多めに飲みたいのだ。
お湯が沸騰するのを待つ間にドリッパーを準備して、フィルターをゆっくりと折り目をつけながら開く。
お湯が沸騰したらホウロウの珈琲ポットに注いで、ほんの少しずつドリッパーの真ん中に垂らしてゆく。
フィルターを濡らさないように。
フィルターが濡れるとお湯はそのまま落ちていってしまう。珈琲を薄めてしまうのだ。
ぽわぽわと音をたてるように珈琲が膨らむ。
焦らないように、じれる気持ちをおさえながらゆっくりとすすむ。
それでも冷めてしまわないように適度に速度をたもつ。
わたしこの匂いがすきなんだ、とぼんやりと考えて、急に会いたくなる。
「センセイ」
考えていただけのはずなのに口に出していっていた。
そんな淹れ方じゃせっかくの珈琲が冷めてしまいますよ、ツキコさん。
センセイにそう言われそうな気がした。
お湯をそそぐことばかりに気をとられていたら、いつの間にかこはく色の液体はきっかり1.5人分首をそろえていて、
あたたかい香りがたちのぼってきて完成した。液体が首をそろえるだなんてなんだか変だなとひとりで笑った。
温めておいた白い珈琲カップにたおやかにそそぐ。たおやかがどんな意味だったのかよくわからないけれど、
そういう気持ちなのだわたしは。

駅から少し離れた住宅地にぽつりとあるフランス菓子屋はどれも絶品で、お菓子の名前なんててんで分からないわたしがメクラメッポウ2、3選んでもいつもハズレがない。存外わたしは目利きなんじゃないかとも思うが、やっぱりあのフランス菓子屋がおいしいのだろう。それともわたしの好みなだけなのだろうか。
今日はガレット・ブルボンヌを食べることにする。こげ茶色でぽってりとした厚みがなんともおいしそうだ。
どうしてもセンセイの顔が思い浮かんでしまう。いけないいけないこんなことなら、お菓子を買った帰りにセンセイの家に寄ればよかった。センセイはわたしよりもおいしく珈琲を淹れそうな顔をしている。それともそんな若者の飲み物は好まないのだろうか。そういえば、いつもお酒ばかり飲んでいて喫茶店なんぞ二人で行ったことがなかった。

さくりと音を立ててガレット・ブルボンヌの甘みが口の中に散らばる。少しかみしめて、それから湯気の立つ珈琲を一口飲んだ。ごくり、と自分でもびっくりするほどのどが鳴った。センセイがそばにいれば、はしたないですよ、ワタクシはそんな飲み方はしません、と言うかもしれない。
「センセイ」
言ってからまた珈琲を飲んだ。やはりごくりとのどが鳴った。
「ツキコさん」
わたしを呼ぶ声が聞こえた。そんなにもわたしはセンセイに会いたいのかと思ったら、窓の外に本当にセンセイがいた。思いは通じるものである。
「いい匂いがここまでしますよ。ワタクシにも一杯馳走にならせていただけませんか」
「はい」
センセイは階段をゆっくりとあがって、わたしに並んで立っていた。I♡NYのマグカップを渡した。
「立っているというのもなんですね」
「なんですか」
「ええ、そういうものです」
わたしはセンセイにもガレット・ブルボンヌを渡した。おいしそうに食べて、しばらくすると
「ツキコさんは珈琲を淹れるのが上手でいらっしゃる」
と言ってひょうひょうと笑った。なんともつかみどころのない人である。

センセイが帰ったあとに、マグカップをふたつ洗った。
センセイがわたしの部屋に来たのは初めてだったことに気づいた。


≪END≫



というわけでですね、本当にどうでもいいのですが、僕は珈琲が大好きなわけです。
それでうちには大体常時、2店の珈琲問屋さんの珈琲豆が2種類ずつあります。
さらに「マズ珈琲」と呼ばれる、別にマズい珈琲ではないのですが、相対的にそういうことになってそう呼ばれている、
こちらはお店で挽いてもらった「マズ珈琲」とエスプレッソ用の三番挽きの粉があります。
で、ですね、今、僕は作曲の締め切りにものすごく追われていて、ライブやリハーサルや稽古や大道芸や本番がないときは、家で曲を書いているわけですが(今、お前はブログを書いているじゃないか、と言わないで)、それはもう大変な量の珈琲を消費していくわけです。一日10杯はくだらないのではないかと思います。
僕は珈琲が好きですね、そうですね。
僕はおいしい珈琲が好きだと思っていました。でもそうじゃないんじゃないかって、昨日寝しなに気づいたんです。
もしかして、
僕は、
珈琲が好きなんじゃないか、と。

つまりですね、珈琲なら何でもいいんじゃないかと。
良い方の珈琲を淹れるには、上記川上弘美さん風の文章の中にあるようにミルで挽いたり色々厄介です。
なので、「マズ」の方を大量に淹れていたんですけど、
これはもしかして、もしかしたら、
まだ見ぬ地平があるのでは。
大体、作曲中なんて珈琲の味なんて考えもせずに、飲んでいるのです。
つまり、
味とか匂いとかそういうことではなくて、珈琲であれば何でもいいのではないか、と。

ということで、本日、人生で初めて、インスタントコーヒーと書かれた瓶を買ってみました。
現在、テーブルの上に置かれています。
マグカップには珈琲が入っています。
味も匂いもあったもんじゃない安心感と習慣のためだけのインスタントコーヒーが。
こんなに素敵なものが世の中にあることを、二十歳の僕に教えてあげたいです。
あなたが好きなのは、おいしい珈琲ではなく、「珈琲」という安心感ですよ、と。


ということで、(どういうことだ)
日常生活を描いた小説を読みたいな、と思って、
未読だった川上弘美さんの「センセイの鞄」を読んだわけです。
何というか、この人の小説を読むのは久しぶりだったんですが、とても危うい。
小説の中に描かれている世界が危ういんではなくて、大変微妙なバランスなんですが、
小説としての完成度が危うい。
けれどもこの不安定で未完な雰囲気がこの人独特の世界を作り出しているのだろうと思います。
でも「センセイの鞄」は、こんな文体を真似ておいてなんですが、本当にこんな大人にはなりたくない、という気持ちを抱えながら読了しました。
すごく理性的でありそうで、ほんの少しだけ庶民よりも社会を達観しているようなセンセイが、一人で夜な夜な居酒屋にいたり、パチンコをしたり、言及はされてないけれど、煙草を吸っていたり、何というか人物像が危うくて、読んでいて、ヒヤヒヤしてしまいました。
ツキコさんも、どんな造形なのか映像的によく分からず、結構な年上のセンセイへの思いが何で芽生えているのか、きっと本人にもよくわからないふわふわした雰囲気でした。
そんな地に足のつかない関係性を、僕はあまり理解できず、登場人物たちへムカついてごめんなさい。
でもムカつくくらいには
大変良い小説なのではないかと思えてきました。

まぁ何で読んだかというと、この間、
長嶋有さんの「三の隣は五号室」を読んで、久しぶりに涙を流しそうになるほど感動したのです。
木造アパートの部屋が主人公で、何十年にも渡り住民たちがいた証を部屋だけが知り、そして、そこにただ痕跡が残っている、という物語。
時系列で住民たちを追うわけではなく、部屋の中で同じような出来事が起きた瞬間だけをまとめて、章ごとにわかれています。
と、思っていたら束の間、突然、最後の方で緩やかに繋がる挿話の数々。全くもうなんだこれは。感動したよおい。

あまりにも感動してしまいまして、谷崎潤一郎賞を取っているやつ取っているやつ、と思って、「センセイの鞄」を読んだのでした。

でも僕が読みたかったのはそっちじゃなかった。
集合住宅小説が読みたかったのだ、と思いました。
今読みたかったのは
センセイとツキコさんのように無いかもしれないところに「ある」を探す小説ではなくて、
関係性の無いかもしれない人びとが無いままでいい小説を読みたかったのだと気づいてしまいましたので、
これはもう、
柴崎友香さんの「パノララ」と「千の扉」を明日買いに行こうと思います。

先日、柴崎さんのトークショーを見たのです。「わたしたちの家」という映画の後に。
映画も大変良かったですが、柴崎さんがおっしゃっていた「千の扉」は、あるかもしれないし無いかもしれないどっちでもいい関係が描かれている小説だと言っていたのがとても印象的でした。


大変長い、そして意味のないブログでしたね。

これさ、インスタとかで
「インスタントコーヒー買ったよ!」
とかって瓶を持って写真アップするだけでよかったんじゃね?



さて。
作曲しなきゃ…


読んでくれた方、お疲れさまでした。


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by takekiygalmuto | 2018-02-11 00:41 | 日記

最近の読書

告知がすんなりできました。
ぜひとも来てくださいね、横浜に!


さて、年末年始ですが、何故か僕は、
涼宮ハルヒシリーズを読みまくり、
さらにスティーブン・キングがリチャード・バックマン名義で発表した小説を読み漁り、
遅れてきた中二病みたいな、俺読書好きなんだって言ってるのにちょっと残念な人のレッテルが貼られそうな、
読書セレクションでお送りしていたのですが、食傷気味になってきて、もう少し違う種類の本を読もうと決めました。
もちろん、涼宮ハルヒシリーズは最高潮に面白く、
キングも「死のデッドウォーク」だとか、それはもうワンアイデアで最後まで押し切れる物語の構築力に感嘆極まれり、という感じだったのですが、
両方とも非現実的な世界を前提としたフィクショナルなフィクションで、
なぜだか突然、何だか普通の世界設定の小説が読みたい!という気持ちになりました。

ということで本を探しました。
家にある本で買ったのに読んでいなかったものの中に何かあるのではないか…と。

ええ、そんな儚い希望も潰えて、僕の本棚にはほとんどそういう普通の物語がなかったんですね。
これはもう普通の小説を調べてみよう、と思ったんですが、
「普通の小説」なんて調べてもそりゃもう検索できるわけもなく、
僕の知識を総動員した結果、Amazon先生に発注をかけました。
現代の日本の作家で、ちゃんと読んでいない人たちの純文学を何冊か。
そろそろ届くんじゃないかな。

届くまでどうしようか悩んだ末、とりあえず純文学ならばそれなりのアレですよねという期待を込めて、
ノーベル賞を取りましたカズオ・イシグロの「忘れられた巨人」を読みました。
僕は本当にもうカズオ・イシグロの「充たされざる者」が大好きで、ヌーヴォーロマンの文脈にのるような、そして、音楽を扱った小説では最高峰ではないかと勝手に思っているので、この一作だけでも価値のある作家なのですが、
「充たされざる者」を何度も読んで、その都度僕は充たされてしまいますごめんなさい。

「わたしを離さないで」もいいんですが、そこまで僕の好みではなかったので「忘れられた巨人」を買ったまま放置しておりました。あらすじも設定もしらないままとにかく読み始めました。

あらやだ素敵。
中世らしきイギリスが舞台。だけれども設定はファンタジック。
いきなりよくわからん穴ぼこに人々が暮らす村があり、そこにぼんやりした老夫婦がおります。
どうも、ぼんやりしながら、息子に会いに旅に出るらしい。でも息子がどこにいるのかは、なんとなくぼんやーりとしかわからない。でもとりあえず行ってみようかねえお嬢様(老夫婦の夫は妻をお嬢様と呼んでいるのです)、ってな感じでスタートします。

記憶やら過去やらが
非常に曖昧でぼやけた記憶となって、何かしら霧に包まれた感覚だけがある。そんなにも不確かな記憶と共に、
どこにいるのかも明確にはわからない息子に会いに行く旅。
それはもう、いきなりときめくにきまってます。

さらには遍歴の騎士が登場して、アーサー王に仕えていたらしい老騎士やら、陰のある少年が登場したり、
竜が出てきたり、
もうどんだけファンタジックなのよ!と思いながらどんどん読んでしまいました。

ええ、日常を舞台にした小説が読みたかったのに、全く違いましたね。
完全にファンタジックな物語でした。

だがしかし、そこはカズオ(敬称略
物語の主眼は旅でもなければ竜でもなく、それはもう記憶と過去。
忘れるということ。忘却とは一体何もので、忘れてはいけないことは本当に忘れてはいけないことなのか、
忘れることで突き進む何かがあるのではないか、というような大変複雑な問題を描いておりました。
それにも関わらず表面に現れるファンタジックな騎士道物語は停滞せずに、ちゃんと物語として進んでいく。
同時に呼応するように、物語の底辺にずっと流れ続ける忘却。
大変美しく、素晴らしい小説でした。

イーガルメーター
★★★★☆

星4つ。


ですが、僕が読みたかったのは日常生活的なやつ。
そろそろ届くかな、川上弘美の本。
ていうか、そろそろ届いても川上弘美そういえば別に日常の何となくの物語の人じゃなかった。
蛇踏んでたし、くまと散歩してたりしてたわ。どうしよう、まあいいか。

ここで僕は気づいたね。日常を追い求めてもダメなんじゃないかって。
そこで音楽小説を読もうと思いました。

去年恩田陸の「蜜蜂と遠雷」を読んで、クラシックのコンクールの様子、よく取材したんだなぁ、と感心しました。
そして、音楽小説というとよく出てくるのが中山七里の「さよならドビュッシー」
ミステリだったり、題名が何だかなぁ、と思ったりして読んでいなかったんですが、これまた持ってはいたので
読んでみました。

ひーーーー!

ナニコレ。

音楽描写が細かくて、何ていうんだろう、専門家じゃないとそこに目がいかないだろうというような描写がたくさんありました。「蜜蜂と遠雷」は取材で分かる範囲の知識というか、丹念に調べたんだろうな、というような破綻のなさでしたが、
「さよならドビュッシー」は、もっと音楽家の持つ感覚とか、ピアニストじゃないと気にかけないような些末な描写に満ちていて、大変面白かったです。
ちょっとコンクールで弾く曲がそれかよ、というような部分もありましたが、驚きました。
なんというんだろう、ピアニストの皮膚感覚を知っている人なのかしら。でもネットで調べたら作家本人は音楽はやっていないそうで、何でこんなこと書けるんだろうと不思議でなりません。
音楽の知識ではなく、感覚は人から聞いてわかるものじゃないような気がするし、人によっては同意できないようなことを恐れずに断言しているように思われました。
でもね、これミステリなんですよね。
もうさ、こんだけ書けるんだからミステリ要素いらなくね? みたいな気持ちになりながら読みました。
でも、ミステリとしても面白かったです。が、それ以上にピアノの演奏やコンクールを受ける気持ちの作り方とか、
そういう部分が大変好みでした。

ちなみに主役の子は、最初のほうで火事にあってそりゃもう黒焦げで皮膚移植して人造人間みたいになってます。
設定おかしいだろ。ところがどっこい、素敵な小説でした。

イーガルメーター
★★★☆☆

星3つ。




さて、郵便ポストを見たところ、届いておりました。僕の注文した小説。
川上弘美「大きな鳥にさらわれないよう」
長嶋有「三の隣は五号室」


いざ。
取り戻せ日常。



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by takekiygalmuto | 2018-02-02 16:45 | 日記