8月はシアタートラムにてながめくらしつ「うらのうらは、」やら、僕自身が作曲して指揮をしたバレエ初演など、
舞台に関わるものが多かったのですが、
その合間をぬって、
増田俊也著「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」を読んでおりました。
基本的に僕は読書のスピードが早いので月に10冊程度の本を読むのですが、
何と今年の8月はこの一冊にほとんど費やされてしまいました。
僕はほぼ「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」の半殺しにされておりまして、
この夏の読書は格闘技で御座いました。
こんな恐ろしいノンフィクション、何。
むしろ、怒り。
だって、おかしいでしょ。
当時テレビの視聴率100%だったプロレスの
木村雅彦vs力道山戦
の裏話的なアレかと思って読み始めたわけですよ。
そしたら、日本柔道の歴史やら、東条英機やらマッカーサーやらいろいろな人や事件が登場しまくりまくりまくりで、
もうこれは日本の戦前、戦中、戦後の柔道を通した日本文化史、特に戦後にどのようにして「興行」というものが
発展していったか、という文化論の一種でございました。
いや、むしろ、海外にどのように柔道が伝わり、誤り、あるいは日本で消えてしまった柔術が海外にはまだ残り…、と
日本のことだけではなく、海外も巻き込んだ壮大すぎるルポルタージュで、
猛暑の中、僕はこの本と戦い続けたのでした。
読み終えた感想は、
スゲー。
オワッター。
…。
もう脱力ですよ。やっと読み終えた(勝った)。
僕はこの夏プロレスをしていたようです。本と戦っていたようです。
今では名前すら一般には忘れられているかもしれない木村政彦という柔道家の一代記、
あまりにも破天荒で、柔道に真剣で、そして人生に真剣で、ズルく生きた一人の男の生き様に
共感と反発と、何ともいえない「時代」に呑み込まれた哀しみを感じました。
素晴らしいノンフィクションでございました。
さて、「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」を読破して、満身創痍のイーガルですが、
やっと他の本に手を伸ばして、読み始めようと思ったら
もう9月やないかいっ!
どういうことだ。夏を満喫するような夏読書をしようと思って買っていたあの本もこの本も
もう永遠にこない8月に取り残されたように部屋に置かれておりました。
ということでこの1週間の読書は
森見登美彦「ペンギン・ハイウェイ」
名倉編「異セカイ系」
村田沙耶香「コンビニ人間」
の三冊でございました。
「ペンギン・ハイウェイ」
小4の夏休みに街中に突然ペンギンが現れたり、現れなかったりする話。
確か日本SF大賞を取っていたような気がして、夏休みシーズンに読もうだなんて思っていた僕の思惑は
見事にすかされて、9月に読みました。
内容は理論SFというよりは、ジュブナイル×ファンタジーといったところでしょうか。
感想は、小4から巨乳好きは危険。です。
もう少しSF要素が強いのかと思っていたので、少々期待はずれの部分はありましたが、
それでも尚、面白いストーリーと軽快な文章。登場人物たちの会話の、ちょっとピントをはずした話し方が
たいへん面白く、最後まで一気に読んでしまいました。
ただ、これは子供向けなのでしょうか…、結構後半はロジカルな部分も多く、小説内世界の構造を把握するには
ある程度のSF基礎力が試されるような気がしました。
「異セカイ系」
あー、もう、なんだよこれ!と叫びたくなるような多層構造のメタSF。
いや、SFでもないのか、むしろ、実験小説の部類に入るのでしょうか。
ウェブ上で小説を公開するサイトで上位10作品に入ると、その小説世界に作者が入ることができる、
というのが大筋なのですが、
作者と(作者の創造した)キャラクターとの関係性、
そして、作者とキャラクターは完全に違うレイヤーに存在していて、
互いに干渉することは不可能なのか、
また、可能な場合はどのような場合なのか、
そのようなことが書かれた小説であるような感じがしないでもないような小説でした。
一義的には、小説というものがあれば、そこには作者が存在します。
その作者より上位に小説内のキャラクターが立つことができるのか、という挑戦に思えました。
このような試みはフランスのヌーヴォー・ロマンの文脈ではいくつかあったような気がしました。
クノーの「イカロスの飛行」とか確かそうだったような。
あとイタリアのピランデルロの戯曲で「作者を探す六人の登場人物」というのがあったような気がします。
日本でも、筒井康隆が「残像に口紅を」や「虚人たち」の登場人物たちが何らかの物語の登場人物であることを
意識した行動を取っていました。
「異セカイ系」では、小説内の主人公の一人称独白で進んでいくのですが、
それがもう何だかアホみたいに爽やかでリズム感のある関西弁で、それが生き生きとしていて、
さらに、小説内がどんどん多重構造になっていき、最後にちゃんと落とし前をつけて、
しかも、希望に満ちている。
単なる自己完結系独りよがりな「自分の書きたい世界」を書いた小説ではなくて、
オタクっぽくありながらも、この現実世界を見つめる眼差しのある小説でした。
大変大好きです。
でもあんまり人に進められない小説だな。でも大好きです。
セカイ系が好きな人よりも、入れ子構造の小説が好きな人に勧めたいです。
でもそういう人はこの同人誌感に抵抗があるような気も。
誰に向けられて書かれた小説なのか、ターゲットが謎すぎますが、
めちゃくちゃ素敵な小説でした。
この一週間は新鮮な読書が続いております。
「コンビニ人間」
芥川賞受賞作ということで読む気も起きなかったのですが、
とあるキッカケで読んでみることにしました。
とあるキッカケというのが、この本の主題がコミュニケーション障害にある、ということを知ったことなのですが、
僕はですね、この「コンビニ人間」が芥川賞を受賞したとき、
勝手にですね、コンビニで働く健気だけど一生懸命生きている人々の些細な幸せを描いた小説、
と思っていたわけです。
そしたらどうよ、全く違うんだよ。
人とのコミュニケーション不全の主人公が、18歳のときに「コンビニ人間」として生まれ、
人々の言動をトレースしながら、漠然とした「普通」を無感情に演じながら生きる、という話でした。
冒頭の方でいきなり、
「コンビニ人間として生まれる前のことは、どこかおぼろげで…」(「コンビニ人間」より)
などと、自分を、人間としてではなく、コンビニ人間という新種の何か、として見ていることが明確に提示され、
そして、主人公を取り囲む「普通」という漠然とした何ものかの枠内に生きる人々との、社会的関係性が、
淡々と描かれている。
むしろ、新種コンビニ人間誕生秘話的なSFなのではないか、と考えてしまうほど、
全然普通の小説ではありませんでした。
感情、という機能が無く、そしてそれを補うために他者をトレースしてゆく主人公。
社会的「普通」の中に真性コンビニ人間を埋没させようとする主人公。
そして、ラストシーンでは、美しく、その自分の存在を社会的な何か、から乖離させて、
自分になります。
これは絶対にハッピーエンド。何かのレビューでバッドエンドだというようなことを書いている人がいたような
いないような、いや、いなかったかな、どうかな。
さらに、この主人公と同じような気持ちを持ちながら、それでも「普通」と戦うがために戦闘能力を失った男や、
リア充っぽい人たちがいて、そして、何よりも「普通」を体現したような人たちもたくさんでてきます。
この主人公は最初から全然戦っていないし、社会の中に自分の位置など気にしていないし、
なにかに抗ってもいない。
感情が見えない。それなのに、それが全く空虚でも哀しみでもなく、ただ、今まで誰も描かなかった、
そして、描けなかった新しい人間像を小説世界に提示してくれたような気がしました。
こんな傑作を今まで無視していてごめんなさい。
こういう小説を待っていたんです。
こういう小説を読みたかったんです。
他者とのコニュニケーションが苦手な人を主人公にした小説じゃないんです。
これを読んで、「私もコミュニケーション苦手だけど、勇気がでた」とか言ってる場合じゃないんです。
そもそもコミュニケーションの概念自体が無い人の小説なんです。
ああ、この村田沙耶香さんの本、出てるだけ全部読みたい。
コミュニケーション不全の人間を主人公に、どんどん突き進んでいるのか、読みたくて仕方ないので、
一冊買ってみました。
読むのが楽しみなので、来月あたりに読もうかと思っております。
さて、今回も長いですね。
噂の映画
「カメラを止めるな!」
を見ました。
なるほどね。という感じでした。
良かったんです。良かったんですけど、傑作!というよりも、
え!? これ、今まで誰もやってなかったのか、盲点!
みたいな感じでした。
でもこういう映画を撮れるって、いいなぁ、と思いました。
さて、「ペンギン・ハイウェイ」。劇場で見ようかな。
はい、今回も長々とすみませんでした。
もう少し人の役に立てる人間になりたいです。