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作曲家/ピアニスト 武藤健城(イーガル)の公演情報などなど日々の白昼夢。


by takekiygalmuto
えぇと…
半年くらい? ブログを書いていませんでしたね。
あけましておめでとうございます。

さて、去年一年間、僕は一体何をしていたのかと、
確定申告のことをダラダラしながら手帳を見ていたら

大道芸フェスに
ながめくらしつやAYACHGAL、はたまたイーガルソロで出演したり
舞台作品を何本かやったり、
北原ミレイさんと共演できたり、
楽しいことがたくさんありました。

今年に入ってからは、
横浜の小学校で合唱曲を小学2年生たちと作ったり、
大道芸をしたり、ラジオ収録をしたり、と
まぁ、そんな感じで始まりました。

どんな一年になるか、楽しみです。



んな、ことよりだな、
僕は、年末。というか去年の12月中旬から年末まで何度の映画館に行っていたのです。
しかも同じ映画を見に。

「へレディタリー/継承」

というホラー映画なんですが、
もーーーっ! これがめちゃくちゃ面白くって、何度も見たくなっちゃったわけです。
主演のトニ・コレットの演技が凄まじく凄まじいのと、
映画が終わったときに、は?何これ?ってなるんですが、
それから思い返してみると、絶対にこれしかない、という映画の道筋が見えるんです。
こんなロジカルなパズルみたいな映画久々に見たよ。感動した。
それで答え合わせのためにまた見に行って…みたいな感じで最終的には、
年末かなんかは、深夜に映画館がやってたりするんですね。
うっかり、深夜に衝動に任せてへレディタリー。継承してまいりました。

僕的去年のベスト映画、ダントツトップですへレディタリー。おういぇあ。

そんでもってですね、去年はアメリカ映画でホラーは豊作だったとウワサを聞きまして、
こないだ「サスペリア」のリメイクを見てきたんです。
「君の名前で僕を呼んで」の監督が、リメイクしたんですね。

いやぁ、これがまた面白かった。へレディタリーとはまた全然違うんですが、
面白い。



さてさて。
近況です。

暇な日は大体、映画を見るか漫画を読むかアニメを見るか本を読んでいる僕ですが、
今年に入ってからは、漫画をたくさん読んでいました。

それから、本。最近読んだ本。


アール・コニー/セオドア・サイダー「形而上学レッスン」

セオドア・サイダーの「四次元主義の哲学」を読んだりなんかして、他の著書を読もうとしたらこれしかなく、読んでみたところ、形而上学の「問い」ごとにコニーとサイダーがそれぞれ、問題を整理して書いている素敵な形而上学入門書。
決して答えを出すための本ではなく、形而上学的問いとはどのようなものなのか、ということをいろいろな視点から書いている、大変入門に適した本でした。読めばあなたも形而上学通。ってな感じです。
やはり、サイダーの持つ、哲学的視点の明快さは読んでいて気持ちがよいです。

エリック・ホッファー「自伝」

波止場の哲学者と呼ばれたホッファーの自伝。波止場の労働者になる前までの出来事が語られています。
読み応えのある本でもなく、波乱の人生と呼べるほどには波乱も無いのですが、それでもいつどのようにホッファーが何を考え、感じていたのかを教えてくれる自伝でした。


石川宗生「半分世界」

4つの中短編です。「吉田同名」は、とある吉田さんがめちゃくちゃ増殖する話でした。大変美しい共同体のお話。素敵です。「半分世界」は、家が半分無くなって、中が丸見えなのに普通に生活している家族を観察する人々の話。こちらもものすごく良く出来ていました。
が、しかし、次の中編「白黒ダービー小史」がものすごい。「吉田同名」や「半分世界」で短編をきっちり書ける人だな、とは思ったのですが、もしかしたら長編をまとめられないのではないか、というような勝手な心配をしていたわけですが、この「白黒ダービー小史」は、とある町が白と黒に分かれていて、謎のサッカーみたいなゲームを街中で繰り広げている中で、対立する白黒両チームの選手たちの恋、ロミオとジュリエットのような恋模様が描かれています。
何となく、アメリカの現代文学的な雰囲気を感じました。ピンチョンとかフィリップ・ロスあたりの。
だがしかし、最後の短編「バス停夜想曲、あるいはロッタリー999」は、南米文学のマジックリアリズム的世界観、こないバスを待つゴドー感、小さな出来事から世界を構築していく様、ものすごい作家だな、と思いました。
4篇通じて、SFというよりは、もう少しマジックリアリズム的な純文学なんではないかという気もしましたが、大変好みです。これからも新刊が出たら読みたいと思います。

高山羽根子「オブジェクタム」

表題作の他、短編が2篇収録されていますが、とにかく表題作「オブジェクタム」が素敵でした。
本当にあった出来事なのか幻なのか夢なのか判別のつかない様々な事柄が同じように語られ、想像の世界の中で輝いている。そんな小説でした。
あぁ、美しい。





さて、今年も、何にも有益じゃないブログでスタートしましたね。
今年も一年、不毛なブログを目指します。

ことよろ!

# by takekiygalmuto | 2019-02-07 21:55 | 日記
さて、先日試写会に行ってまいりました。
「バルバラ セーヌの黒いバラ」


今年は前半にシャンソン歌手ダリダの伝記映画が公開され、そして、11月にはバルバラを題材にした映画が公開されるだなんて!
とワクワクしておりましたら、
何と試写に呼んでいただきまして、見てまいりました。


これでございます。
バルバラを題材にした映画を撮ろうとする映画監督と主演女優の話です。
劇中には、バルバラの本人映像満載、そして、バルバラの映画を撮影するシーン、
さらに映画監督と主演女優の撮影外での様子が入り乱れて、構成されております。
どこまでが撮影されている「バルバラにまつわる映画」なのか、
どれが「本人映像」なのか、どれが「監督と女優の日常」なのか、
映画が進むにつれてその境界線は曖昧になり、違うはずのレイヤーが淡く滲みながら重なりあってゆく。
劇中映画の主演女優が演じるバルバラ。彼女が曲を作るシーンを興味深くみました。
ピアノを弾きながら鼻歌で…こんなふうに曲を作っていたのかなぁ…
ふむふむなるほどなるほど、などと思ったりもしましたが、
そんなシーンも突然、セットが解体されて消失してしまったりします。
基本的には構造が入り組んでいて、一体何が映画内で進行しているのか、一見しただけではわからない。
今見せられているのは、映画内映画なのか、それとも女優の日常を描いたセミドキュメンタリー的な何かなのか、
映画内に映る粗いフィルム映像はバルバラ本人なのか、時間をおう毎に、境目は曖昧になり、
映画後半では、もう僕は見せられているものが何かを考えることを放棄しました。
それでも圧倒的に美しい混沌が心の中に流れ込んでくる。
そんな映画でございます。

僕は、あやちクローデル×イーガルのユニットで、バルバラの楽曲を演奏することがあります。
特に「黒いワシ」。
歌詞が多様な意味を持ち、解釈の幅が広い。何でしょう、文学で言えばジョイスの「ユリシーズ」みたいなものでしょうか。
多義語、という言語の特性をいかした謎めいた言葉の羅列。一応意味はわかる、けれど、それが一体何を指しているのかわからない…、その分からなさと得体の知れなさをそのままに、バルバラの曲を演奏しています。
言語化できない何か、がバルバラの歌にはあると思うのです。
バルバラは歌手であり、言葉を扱っているのだから言語化できない何かなはずはなかろー、と思うでしょ。
でも、だがしかし、さもありなん。バルバラの歌は言語化できない何かを、言語という表層の裏側に隠しているような気がしてならないのです。
そして、その見えざる言葉を、表層にある言葉とつなぎ合わせながら演奏してゆく。バルバラの楽曲を扱う、ということは、
そのような作業だと思っています。


そして!
この映画がまさに、バルバラの楽曲に僕たちが向かうときに感じる解釈の不可能性と同じでした。
この「バルバラ セーヌの黒いバラ」という映画自体がバルバラの音楽のような、
バルバラの音楽の概念のような映画でした。
気持ちいいほどに、「解釈する」という行為自体が飽和して、消失していくような体験。

何か似たような映画はあったかな、と思ったら
イングマール・ベルイマン監督の「ファニーとアレクサンデル」やデヴィッド・リンチ監督の「インランド・エンパイア」
に近いのかな、という気もしましたが、
上記の映画はもう少しレイヤーの区分がはっきりしていて、観客はその混沌の外側に居続けられます。
しかし、この「バルバラ セーヌの黒いバラ」は、観客共々、映画の中で迷子になっていく、出口のない迷宮のような映画です。

何度も見たい。もう今すぐ見たい。
そして劇場でも見たい。

皆様、ぜひ劇場で御覧ください。
11月16日Bunkamura ル・シネマで公開です。

いやぁ、こんなにも破壊力のある映画だったとは…。
こんな凄まじい映画を撮ったマチュー・アマルリック監督に脱帽です。



# by takekiygalmuto | 2018-09-16 19:40 | 日記

9月前半の読書

8月はシアタートラムにてながめくらしつ「うらのうらは、」やら、僕自身が作曲して指揮をしたバレエ初演など、
舞台に関わるものが多かったのですが、
その合間をぬって、
増田俊也著「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」を読んでおりました。
基本的に僕は読書のスピードが早いので月に10冊程度の本を読むのですが、
何と今年の8月はこの一冊にほとんど費やされてしまいました。
僕はほぼ「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」の半殺しにされておりまして、
この夏の読書は格闘技で御座いました。
こんな恐ろしいノンフィクション、何。
むしろ、怒り。

だって、おかしいでしょ。
当時テレビの視聴率100%だったプロレスの
木村雅彦vs力道山戦
の裏話的なアレかと思って読み始めたわけですよ。
そしたら、日本柔道の歴史やら、東条英機やらマッカーサーやらいろいろな人や事件が登場しまくりまくりまくりで、
もうこれは日本の戦前、戦中、戦後の柔道を通した日本文化史、特に戦後にどのようにして「興行」というものが
発展していったか、という文化論の一種でございました。
いや、むしろ、海外にどのように柔道が伝わり、誤り、あるいは日本で消えてしまった柔術が海外にはまだ残り…、と
日本のことだけではなく、海外も巻き込んだ壮大すぎるルポルタージュで、
猛暑の中、僕はこの本と戦い続けたのでした。
読み終えた感想は、

スゲー。

オワッター。

…。

もう脱力ですよ。やっと読み終えた(勝った)。
僕はこの夏プロレスをしていたようです。本と戦っていたようです。

今では名前すら一般には忘れられているかもしれない木村政彦という柔道家の一代記、
あまりにも破天荒で、柔道に真剣で、そして人生に真剣で、ズルく生きた一人の男の生き様に
共感と反発と、何ともいえない「時代」に呑み込まれた哀しみを感じました。
素晴らしいノンフィクションでございました。


さて、「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」を読破して、満身創痍のイーガルですが、
やっと他の本に手を伸ばして、読み始めようと思ったら

もう9月やないかいっ!

どういうことだ。夏を満喫するような夏読書をしようと思って買っていたあの本もこの本も
もう永遠にこない8月に取り残されたように部屋に置かれておりました。

ということでこの1週間の読書は
森見登美彦「ペンギン・ハイウェイ」
名倉編「異セカイ系」
村田沙耶香「コンビニ人間」
の三冊でございました。

「ペンギン・ハイウェイ」
小4の夏休みに街中に突然ペンギンが現れたり、現れなかったりする話。
確か日本SF大賞を取っていたような気がして、夏休みシーズンに読もうだなんて思っていた僕の思惑は
見事にすかされて、9月に読みました。
内容は理論SFというよりは、ジュブナイル×ファンタジーといったところでしょうか。
感想は、小4から巨乳好きは危険。です。

もう少しSF要素が強いのかと思っていたので、少々期待はずれの部分はありましたが、
それでも尚、面白いストーリーと軽快な文章。登場人物たちの会話の、ちょっとピントをはずした話し方が
たいへん面白く、最後まで一気に読んでしまいました。

ただ、これは子供向けなのでしょうか…、結構後半はロジカルな部分も多く、小説内世界の構造を把握するには
ある程度のSF基礎力が試されるような気がしました。


「異セカイ系」
あー、もう、なんだよこれ!と叫びたくなるような多層構造のメタSF。
いや、SFでもないのか、むしろ、実験小説の部類に入るのでしょうか。
ウェブ上で小説を公開するサイトで上位10作品に入ると、その小説世界に作者が入ることができる、
というのが大筋なのですが、
作者と(作者の創造した)キャラクターとの関係性、
そして、作者とキャラクターは完全に違うレイヤーに存在していて、
互いに干渉することは不可能なのか、
また、可能な場合はどのような場合なのか、
そのようなことが書かれた小説であるような感じがしないでもないような小説でした。
一義的には、小説というものがあれば、そこには作者が存在します。
その作者より上位に小説内のキャラクターが立つことができるのか、という挑戦に思えました。
このような試みはフランスのヌーヴォー・ロマンの文脈ではいくつかあったような気がしました。
クノーの「イカロスの飛行」とか確かそうだったような。
あとイタリアのピランデルロの戯曲で「作者を探す六人の登場人物」というのがあったような気がします。
日本でも、筒井康隆が「残像に口紅を」や「虚人たち」の登場人物たちが何らかの物語の登場人物であることを
意識した行動を取っていました。

「異セカイ系」では、小説内の主人公の一人称独白で進んでいくのですが、
それがもう何だかアホみたいに爽やかでリズム感のある関西弁で、それが生き生きとしていて、
さらに、小説内がどんどん多重構造になっていき、最後にちゃんと落とし前をつけて、
しかも、希望に満ちている。
単なる自己完結系独りよがりな「自分の書きたい世界」を書いた小説ではなくて、
オタクっぽくありながらも、この現実世界を見つめる眼差しのある小説でした。
大変大好きです。
でもあんまり人に進められない小説だな。でも大好きです。
セカイ系が好きな人よりも、入れ子構造の小説が好きな人に勧めたいです。
でもそういう人はこの同人誌感に抵抗があるような気も。
誰に向けられて書かれた小説なのか、ターゲットが謎すぎますが、
めちゃくちゃ素敵な小説でした。

この一週間は新鮮な読書が続いております。


「コンビニ人間」
芥川賞受賞作ということで読む気も起きなかったのですが、
とあるキッカケで読んでみることにしました。
とあるキッカケというのが、この本の主題がコミュニケーション障害にある、ということを知ったことなのですが、
僕はですね、この「コンビニ人間」が芥川賞を受賞したとき、
勝手にですね、コンビニで働く健気だけど一生懸命生きている人々の些細な幸せを描いた小説、
と思っていたわけです。
そしたらどうよ、全く違うんだよ。
人とのコミュニケーション不全の主人公が、18歳のときに「コンビニ人間」として生まれ、
人々の言動をトレースしながら、漠然とした「普通」を無感情に演じながら生きる、という話でした。
冒頭の方でいきなり、

「コンビニ人間として生まれる前のことは、どこかおぼろげで…」(「コンビニ人間」より)

などと、自分を、人間としてではなく、コンビニ人間という新種の何か、として見ていることが明確に提示され、
そして、主人公を取り囲む「普通」という漠然とした何ものかの枠内に生きる人々との、社会的関係性が、
淡々と描かれている。

むしろ、新種コンビニ人間誕生秘話的なSFなのではないか、と考えてしまうほど、
全然普通の小説ではありませんでした。
感情、という機能が無く、そしてそれを補うために他者をトレースしてゆく主人公。
社会的「普通」の中に真性コンビニ人間を埋没させようとする主人公。
そして、ラストシーンでは、美しく、その自分の存在を社会的な何か、から乖離させて、
自分になります。
これは絶対にハッピーエンド。何かのレビューでバッドエンドだというようなことを書いている人がいたような
いないような、いや、いなかったかな、どうかな。

さらに、この主人公と同じような気持ちを持ちながら、それでも「普通」と戦うがために戦闘能力を失った男や、
リア充っぽい人たちがいて、そして、何よりも「普通」を体現したような人たちもたくさんでてきます。
この主人公は最初から全然戦っていないし、社会の中に自分の位置など気にしていないし、
なにかに抗ってもいない。
感情が見えない。それなのに、それが全く空虚でも哀しみでもなく、ただ、今まで誰も描かなかった、
そして、描けなかった新しい人間像を小説世界に提示してくれたような気がしました。
こんな傑作を今まで無視していてごめんなさい。
こういう小説を待っていたんです。
こういう小説を読みたかったんです。

他者とのコニュニケーションが苦手な人を主人公にした小説じゃないんです。
これを読んで、「私もコミュニケーション苦手だけど、勇気がでた」とか言ってる場合じゃないんです。
そもそもコミュニケーションの概念自体が無い人の小説なんです。

ああ、この村田沙耶香さんの本、出てるだけ全部読みたい。
コミュニケーション不全の人間を主人公に、どんどん突き進んでいるのか、読みたくて仕方ないので、
一冊買ってみました。
読むのが楽しみなので、来月あたりに読もうかと思っております。



さて、今回も長いですね。


噂の映画
「カメラを止めるな!」
を見ました。

なるほどね。という感じでした。
良かったんです。良かったんですけど、傑作!というよりも、
え!? これ、今まで誰もやってなかったのか、盲点!

みたいな感じでした。
でもこういう映画を撮れるって、いいなぁ、と思いました。


さて、「ペンギン・ハイウェイ」。劇場で見ようかな。


はい、今回も長々とすみませんでした。
もう少し人の役に立てる人間になりたいです。










# by takekiygalmuto | 2018-09-16 19:35 | 日記

9月の出演

9月後半のオフィシャルな出演情報でござります。


9月23日(日)

窪田美樹個展『情緒の辻〜均等にやって来る十二の鬱』

根津・千駄木 GALLERY KINGYO

開場14時/開演14時30分 2,000円1ドリンク付き

ライヴ『中心の無いステージ』

​出演:あやちクローデル×イーガル


さらに、イーガルは美樹さんの作品に合わせた十二音技法の現代音楽作品も併せて発表します。


9月24日(月・祝)

立川南フェスタ

立川南口商店街 11:00~16:30

芸人まこと、KANA∞、うつしおみ、ミホウ、イーガル、てのひら、CHIKI、バーバラ村田、吉川健斗、Okk、加納真実、バロン、チャタ、桔梗ブラザーズ、SUKE3&SYU、紫ベビードール、セクシーDAVINCI


イーガルはピアノでロービング、さらに定点ではソロパフォーマンス、そしてうつしおみとのコラボもします。


9月28、29日(金・土)

マボロシ劇場

出演:ペピン結構設計、高橋匡太&柳井祥緒、祝祭のサーカス団(イーガル、みま、森田智博/演出 上ノ空はなび)

18:15~19:00 パフォーマンス 19:00~20:00 まちなかパフォーマンス

20:00~20:20 グランドフィナーレ


9月30日(日)

「The Singers!」

昼公演:14:00

夜公演:18:00

(30分前開場)

きゅりあん・大ホール(東京・大井町)


料金:\7,800

出演:Ryu/松原健之/ TRITOPS*/ NTB

特別ゲスト:北原ミレイ

演奏:Baladin/Baron

主催:㈱ハーモニー


チケット絶賛発売中

チケットぴあ(Pコード:121-439)



です。今回もまた北原ミレイさんとご一緒させていただきます!嬉しい!


# by takekiygalmuto | 2018-09-16 17:35 | 告知

夏休み読書感想文

夏休みですね。
夏休みなんていつの頃から廃止になったのかってくらい、
夏休みの実感がないんですけど、一応
夏休みなんですね、今は。
夏休みといったらなんでしょう。
やはり、読書感想文ですよね。
僕は小学生の頃から、一ミリも感想のない読書感想文を出し続けて、
先生に「君の意図がわからない。」と言われ続けたのですが、
それは僕が全然主観的な感想を書かずに、これこれがこのような構造になっている、というようなことを
書き続けたからんですね。
何かの読書感想文では、何の本だったのか忘れましたが、本の粗筋と矛盾点。最後に、川で子供だけで遊ぶことの危険性への喚起など、確かにどこにも感想なるものがなかったなぁ、と思ったり、(小3のイーガル)
古今亭志ん生の口演台本の感想文なのに、古今亭志ん生の芸名の遍歴を書き続けたり、と(小4のイーガル)、
今思えば、大変攻め込んだ読書感想文になっておりました。

さて、今年の夏は一体どんな本を読んでいたのかと申しますと、
これはもう、ワールドカップですよね、サッカーですよね、スポーツですよ。
ということで、スポーツを題材にした名エッセイ集なぞ読んでました。

「肉体の鎮魂歌」という増田俊也編さんの素晴らしいエッセイ集です。
中でも、高山文彦の『遥かなる祝祭。ー吉村禎章の軌跡。ー』は、涙なくしては読み進められない、
恐ろしく人間的な苦悩に満ちたエッセイでした。
そうだった、吉村禎章は大怪我をしたんだ、そうだった…と。そして、大怪我をさせてしまったチームメイトの栄村にも苦悩があり、もう暑苦しいくらいに美しい。
この一編だけでも良いのに、どこを読んでも素晴らしいスポーツエッセイ入門書のような本でございました。
スポーツ少年少女よ、ぜひとも読書感想文に。
先生も「シブいねぇ」と喜んでくれるはず。

エッセイに気を良くした僕は、磯部涼の「ルポ川崎」を読みました。
正直、ルポルタージュとしては半端というか、体をなしていない感はありますが、
章ごと、別々の人物の視点から語られる川崎という町。
そこで生きる人々の行き場のない鬱屈感と、環境に甘んじていく姿、そこから抜け出そうとする姿、
壮絶で、規格外で、とにかく面白い。
この凄まじさに圧倒されて、久しぶりに大興奮の中、夜通し2回読んでしまいました。
これはもう、加藤詩子の『一条さゆりの真実』並に激アツルポでした。
ルポルタージュは戦いなのだと、改めて思った次第でございます。
小学生の皆さん夏の読書感想文にはぜひ、ルポ川崎を。
先生をドン引きさせてください。

さらに田口久美子の『書店風雲録』を読みました。
今はなき、池袋のリブロの書店員としてリアルタイムの80年代~2000年代を見つめてきた著者による、
書店とはいかなる場所か、そして、書店は何を成し遂げ、何を出来なかったのか、ということが書かれております。
私たちが買う本の裏側には、本を売る仕事がある、ということを考えさせられる本です。
そして、リブロという書店は、文化、いや、カルチャーを作っていた場所なんだなぁ、と良くも悪くも思いました。
本好きの皆様の読書感想文にぜひ。
きっと先生よりも君のほうが本を読んでると思われるよ!勝ち組!

そんなこんなをしていたらですね、
漫☆画太郎先生の「星の王子さま」の2巻を買おうとして、間違えて1巻を買ってしまったんですね。
ということで、改めて2巻を買い直したけれど、うちには漫☆画太郎先生の「星の王子さま」1巻が二冊あります。

1巻ラストの方にはサン=テグジュペリの「星の王子さま」にちっとも引けを取らない名台詞があります。

「いちばんたいせつなことは地上波では見れないんだよパヤオ」

何という感慨深い言葉でしょう。この言葉を引用するだけで、この夏の読書感想文は満点ですね。
話の筋は、まぁうん、凄まじくくだらない。さすがです。

最近では間違えて2冊3冊と同じ本を買ってしまうことがあるのですが、
草野原々の「最初にして最後のアイドル」という近年稀に見る傑作SF短編集を3回買ってしまった以来の出来事です。
読書用と読書用と読書用です。何で買ったことを忘れて買ってしまうのでしょう。
推し作家だから、応援だと思って、もう一冊くらい買おうかしら。
この短編集は、アイドル活動、声優、ソシャゲをSFに昇華させて、さらに宇宙をふっ飛ばすというような、
イマジネーションの突飛な飛躍に満ち満ちた、トキメキ満載SFです。読者を選ぶ本ではありますので、そこんとこよろしく。
ちなみに、「最初にして最後のアイドル」を読み終えてなぜか、桜坂洋の「さいたまチェーンソー少女」を読み直してしまいました。学校って大変。

漫画二度買い地獄に慄いた僕は、一応、家の漫画の在庫を調べてみました。
そしたら、あー、懐かしい、とか思いながら、読みまくっちゃったわけです。
萩尾望都「ポーの一族」「トーマの心臓」
中村明日美子「Jの総て」「コペルニクスの心臓」
岡崎京子「リバース・エッジ」「PINK!」
高野文子「絶対安全剃刀」「黄色い本」
などなど。

とりあえず、切りがなさすぎて1作家2作品まで、と勝手なルールを決めて読んでおりました。
ていうか、少女漫画ばっかりじゃねーか。
でもですね、改めて読み返してみると、漫画にしか出来ない表現があったりするわけです。

岡崎京子の「PINK!」は改めて本当に傑作だなぁ、と思いました。
OL的な人が家にワニを飼っている話なんですけど、この普通と不条理のアンバランスなままの同居は、漫画ならではの、
空気感だなぁ、と思いました。
小説にしてしまうと、その不条理に対しての説明が必要な部分が、絵の中に押し込まれて、不思議と違和感のない理路整然とした世界に見えてくるから不思議です。

高野文子の「絶対安全剃刀」はどれを読んでも読み終えた途端に怖くなって、読み終えるのに時間がかかりました。
人間の持つ哀しみが絵の中に溢れすぎていて、もうなんだか、ヘミングウェイを読んでいるような気分に。
絵がうまい、っていうのか、そういうことじゃないような、漫画の域にはいないというか、何というか、
とにかくやっぱり凄まじい漫画でした。
10年後くらいにまた読み返すでしょう。これまた読書感想文にはうってつけの漫画ですね。



さてそんなこんなで今は増田俊也渾身の長編ルポ『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか』を読んでおります。
グレゴリー柔術に勝った男、木村政彦の話です。
冒頭からいきなり熱い。
猛暑に読むと、昇天してしまいそうな熱さです。
僕は『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか』にこの夏殺されずに生き残れるのでしょうか。
サヴァイヴ出来たらまたブログを更新します。

長くてごめんね。
そしてくだらなくてごめんね。

# by takekiygalmuto | 2018-08-10 00:23 | 日記